武蔵野市役所前の中央通りの桜が、今年度中に10本以上伐採されるみたいです。
桜のトンネルとして有名な道路
こちらの中央通りは「桜のトンネル」として有名で、4月の桜まつりなどでは多くの市民の方が見に来る一つの観光名所。
今年も夜桜のライトアップなどをしており、編集長も毎年楽しみしております。
今回伐採されるのは確認できただけで10本以上
そんな桜の木ですが、確認できただけで13本ほどは今年度中に伐採(抜根・新植)されるとのこと。場所はくら寿司の交差点から武蔵野市役所にかけて。
伐採理由は、樹幹内部による腐朽や空洞化により、倒木や幹折れを未然に防ぐためとのこと。
最近は風も強いし、これから台風の季節なので、この判断は正しいかなと思います。
今後について市の担当者に聞いてみた
しかし、やはり伐採してしまうと、「桜のトンネル」が見られなくなってしまうのではないか?
そんな不安が頭によぎったので今後の新植について、市の担当の方に問い合わせをしました。
”昭和20年代の道路整備に伴って今の桜の木を整備しました。樹木医と相談しながら今抜根・新植を進めているところです。現在添え木をしているものと同じような木を植える予定です。”
とのことで、実際にここ数年で新植している木はこんな感じ。
ソメイヨシノの寿命が50年~100年ほどだということなので、ちょうど時代の境目を迎えたのかなと、、
おそらく今残っている木も、樹木診断によっては徐々に伐採されるかなと思います。この先数年の桜を楽しみにしつつ、桜の世代交代を静かに見守っていけるといいですね。
コメント
埼玉県越谷市、北越谷には約2キロに渡って土手に植えられた桜並木があります。
近所に住む私は、物心ついた時から一緒に過ごしてきました。東京と隣接しているので、学校や仕事は都内へ通う人も多く、私もその一人でした。利便性のために転居しなかった理由は、この桜並木と離れたくなかったから。私だけではなく、地元の人たちの共有財産として存在していた、はずでした。
ソメイヨシノの老木化については、数年前から意識していました。ただし、道路にある並木とは違い、土手沿いの桜並木のため、末長く存在していけるのではないかと思っていました。
今週初めに、その並木の一部を全て伐採するという噂を耳にし、市役所に問い合わせると、なんと3月4日から伐採することになっていると!
目の前に住んでいる方々も知らない方が多いです。というか、住民には周知されていません。
寒い冬をじっと耐えて、ようやく蕾をつけ、暖かくなれば開花する、そんなタイミングに全て伐採。
悲しい、さみしい、悔しい、というより苦しいです。
老木だから、安全のため、などの理由、それも分かりますが、共存するということを全く考えられなかったのか。存在しなければ労力が要らなくなる?お金もかからない?ラクになる?
季節を感じる、植物を愛でる、そんなこともできない時代、世の中になってしまったのでしょうか。
近所に住む者としては、花びらや枯れ葉の掃除は大仕事だけど、全然苦ではありませんでした。そういうものだから。雪かきに似ているかもしれません。
伐採の理由の一つにされている、花見時期の迷惑駐車やゴミ問題、確かに困ったこともありましたが、人として個人的に解決できることはしていたし、最近はマナーもかなり良くなっています。
この事を知ってから、仕事中にもふと涙が出てきます。私の中では、人や動物と同じくらい命あるものとして存在していたのだと改めて思いました。
現役世代の私でも鬱になりそうな状態ですが、高齢の方々の悲しみは計り知れません。近隣の学校や幼稚園の子供たち、卒業式や入学式になると写真撮影にくる人たちも何も知らずに今年も訪れるのでしょうか。
覆らなくても、せめて、今春最後のお別れをさせて欲しいです。
書き綴ってしまい、大変失礼いたしました。
自然を愛でる ~
日本文化を花開かせた〈村上天皇の大和心〉
〇平安文化の礎を築いた感性豊かな天皇
「しのぶれど色にいでにけり・わが恋は・ものや思ふと人のとふまで」〜誰にも知られないように隠してきた恋心は、顔色に出るま でになってしまった。「恋に悩んでいるの?」と人に聞かれてしまうくらい〜これは、平兼盛の歌です。淡い恋心を歌ったこの和歌を、時の村上天皇は、小さく口ずさんだことから、歌会で勝利が決定したといわれています。日本独自の文化が育った平安時代、大陸の文化を理解し、豊かに発展させ、自分達にふさわしく醸成さ せていく。その礎を築いたのが、村上天皇です。「天暦の治」と呼ばれる理想的な統治を行い、天皇の死後も、その治世を懐かしむ人々が大勢いたといいます。
その名君が、前述の淡い恋心の歌を口ずさんでいたというのが、何とも微笑ましく、風情が感じられます。
◯その村上天皇の人柄の素晴らしさは、平安時代後期に成立したといわれる歴史物語「大鏡」の「鶯宿梅の物語」からも、伺えます。
◯ある時、天皇が日常の住居とされていた清涼殿で、美しい花を咲かせていた梅の木が枯れてしまいました。 これをご覧になられた天皇は、代わりの梅の木を見つける様命じ、家臣達は都中を探しましたが、立派な梅の木を見つけることができません。やがて、ある家で立派な梅の木が見つけかり、掘って持ち帰ろうとすると、家の主が「梅の枝に、この文を結びつけてお持ちください」と願いました〜清涼殿へ移った梅の木は、見事な花を咲かせ、京都御所は再び芳しい香りに包まれました。その一本の枝に結びつけられていた文には、一首の歌が認められていました〜「勅なれば・いともかしこし鶯の・宿はと間はば・いかが答へむ」〜天皇のご命令は畏れ多いことゆえ、梅の木は献上申し上げまが、これを止まり木にしているウグイスが、「私の宿はどこに行ってしまった 」と尋ねてきたら、どう答えれば宜しいのでしょう。
◯この歌を目にした村上天皇は、すぐ梅の木を持主へ返されました。
この歌を認めたのは『土佐日記』『古今和歌集』の撰者・紀貫之の娘で、この木は父の貫之が愛していた木かもしれません。天皇に対し「大事な梅の木を差し上げる訳には参りません」と申し上げれば角が立つ故、彼女は鶯に思いを託したのです〜何という奥ゆかしさでしょう。彼女の気持ちを汲み、梅の木を奪った行為を恥じ、彼女の元へ戻した村上天皇も、素晴らしい感性の持主です。伝えた方も素敵、受けとめた方も、素晴らしい。粋な心は、相手の粋も誘い出します。
〈桜の木を守った大和心〉
◯その村上天皇の御世から千年以上が経過した、昭和五十九(一九八四)年〜場所は、福岡。
道路の拡張工事で道路脇の桜が伐採される事になりました。 3月中旬、樹齢50年のソメイヨシノ、8本の内の1本が伐り倒されました。桜の蕾は膨らみ、開花も間近〜残りの桜の木も、次々に伐られるのを痛々しく思った住民は、残った桜の枝に短冊を吊るしました。
◯花守(はなもり)進藤市長殿
“花あわれ・せめてはあと二旬・ついの開花をゆるし給え” 〜道路拡張の必要を知る住民からは、工事反対の運動も、抗議も起こってはいません。せめてあと20日間ほど待って、最期の開花ぐらい見せてほしい・・・。
そんな謙虚な思いでした。この詠み人知らずの歌は、大きな反響を呼びました。「花守」と名指しされた当時の福岡市長・進藤一馬氏も、この記事を読んだのでしょう。返歌を認め、同じ桜に下げたのです。
「花惜しむ・大和心は麗し・とわに匂わん花の心は」
〜自然を愛でる日本文化を花開かせた村上天皇の “花惜しむ大和心も、すでに始まった公共事業を中止にする訳にはいきません。それでも麗しく、「みなさんの心はしっかりと受け止めました」〜市長は、そんなメッセージをこの返歌に託し、すぐに工事担当者に「桜の散り終わるまで何とか待てないものか」と要請〜年度末の事業で、工期の遅延が許されない中での市長の要請に、担当者は頭を抱えてしまいました。しかし、この役人もまた、大和心を継承する1人の日本人でした。「せめて花が散るまで、待ってほしい」という、謙虚な歌の奥にある住民の本当の願いを察し、それを受け入れる決意を固めました。予算の大幅な超過を覚悟の上で道路脇の池を拡張分だけ埋立て工事を進め、さらに歩道と小さな公園まで作り、全ての桜を生かす事にしたのです〜1人の詠み人知らずの歌が、同じ思いを抱く面識もない人々による〈大和心のリレー〉は、これに携わった人々だけの力ではなく、花を愛する心を育んできた、私達の社会が生みだした物語なのです。
日本人は古来、自然界に魂が宿っていると考え、崇めてきました。
宇宙船〝地球号〟その主役は自然であり、私達はその地球号に厄介になっているとい う謙虚さを、持ち続けてきました。自然を崇め、自然を愛で、美しい自然とともに生 きる、それが “大和心”の一つのカタチなのです。
◯梅と桜。花こそ違いますが、村上天皇の最大の功績は、この大和心を後世に伝えたことでしょう。時代を超えて私達日本人が継承してきたものを、これからも大切に守り続け、大和心のバトンを繋いでいきたいものですね。
〜「日本の偉人の物語」より
武蔵野市高齢者総合センターと武蔵野ガレリアの間にあった八重桜とソメイヨシノも伐採されてました。同じ理由なのですかね?残念です。
そうだったんですね。。
市の管轄だと思うのでおそらく同じ理由かと、、、